2011年12月3日土曜日

福住 廉 記述

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この場には寂れた農村のような物悲しい雰囲気が漂っていた。床一面に敷き詰められたトタンは錆付き、その上にいくつもの綱が雑然と積み上げられ、あちらこちらに籠や鉈、三本鋤などの使い古された農具が転がっている。お互いがお互いを支えあいながら立てられた長い木箱のあいだに隠されていたのは、芽を出した玉ねぎだ。農閑期の寒村でよく見かけるモノがいたるところに散らばっていたからだろうか、この場に佇んでいると次第に胸の奥に冷たい寂寥感が広がってゆく。モノがゆっくりと朽ち果てていく時間を押しとどめることもできない侘しい無力感。その残酷な時間に自分の肉体も巻き込まれているという実感が、閑寂の趣をよりいっそう強めていたのかもしれない。

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その心象は、随所に設置された照明によっていくぶん助長されていた部分もあったのだろう。上からのスポットライトだけではない。床面からも照射された照明光は、農具の輪郭をはっきり描き出すと同時に、その背後の壁面に薄暗い残像を残していた。白い壁の上で重なり合う影と影。その陰影の濃淡は空間的な拡がりを錯覚させながら、わたしの眼をいつのまにか過日の追憶に誘っていた。ありし日の故人ないしは決して取り返すことのできない時間に思いを馳せ、偲ぶことは、あるいは飯山由貴のねらいではなかったかもしれない。とはいえ、古びた農具を照らし出す光と影が、未来への展望というより、むしろ過去へ遡及していく志向性を強く醸し出していたことは否定できない事実である。時間を巻き戻すことはできないにせよ、その過ぎ去った時間を回想することはできる。その点に、飯山の作品は賭けられていたようだ。

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そして何よりも目をひきつけられるのが、この場の一角を占めるほど巨大な編み物だ。堅牢な支柱に両端を支えられて、編み物の図柄をこちら側に向けて立っている。そこに描かれているのは一見すると茫漠としているが、太い毛糸が織り成すテクスチュアをていねいに読み解いていくと、飛行機の機体がおぼろげに浮かび上がってくる。飛行場に駐機しているのか、それともどこかの山中に不時着したのか、その飛行機が置かれた状況は正確にはわからない。けれども、それがあちら側にあることだけはたしかである。こちら側の寒村とあちら側の飛行機。双方を隔てる境界面を、編み物の毛糸が織り成していたといってもいい。編みの目の向こうには、別の世界が広がっているのである。

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農具によって構成された空間は過去への志向性によって一貫していた。一方、編み物によって占有された空間はこの場ではない別の時空への入り口だった。それらが並存したこの場にはいったい何が立ち現れていたのだろうか。そして、それらが半ば撤去され、半ば残存しているこの場は、いったい何を意味しているのだろうか。もちろん、その回答はあらかじめ用意されているわけではない。ただ、ひとつだけ手がかりを示しておくとすれば、ここにはあなたの眼を過去に導くための三重の装置が仕掛けられている。ひとつは現在のインスタレーションの残存物から過去の完成形を連想させる想像力。もうひとつは、その過去のインスタレーションに表現されていた過去への遡及性。さらには同じく過去のインスタレーションに組み込まれていた別次元への動員力。この場で作用しているのは、この3つの水準を巧みに織り込んだ政治性にほかならない。そして、それらを解きほぐすのは、むろんあなた自身である。

 2011年11年28日 来廊
福住 廉

















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