2011年12月3日土曜日

北澤憲昭 記述

近代と前近代のテクノロジーが、インスタレーションの手法によって対比的に関係づけられている。関係態は三層を成す。前近代と近代、そして、その中間領域の三層である。
 このうち中間領域が、インスタレーションの基層を成している。床のすべてが古びたトタンの波板によって覆い尽くされているのだ。トタンは明治期の産物であり、あきらかに近代に属しているのだが、腐食し、ペンキの痕を残したそれらは、後期近代を生きる者にとっては前近代性を強く感じさせずにはおかないのである。
 基層というのは、ただし、たんに物理的な位置を指すのではない。近代とも前近代ともつかぬトタンのもつ中間性、いいかえれば複合的な曖昧さがインスタレーション全体の基調を成しているのである。
 会場の入り口にトタンを踏まえてたたずむと、まず、巨大な白黒の映像が眼をとらえる。二本の金属製ポールに張り渡したスクリーンのような布地に、炎上する飛行機のすがたが浮かび上がっているのだ。すさまじい煙と炎に包まれ、わずかに左右の主翼と機首が視認できるだけの映像は、その激烈な暴力性によって、近代テクノロジーのインヒューマンな特質を――福島第一原発事故をも連想させつつ――明かしている。
 ただし、映像とはいいながら、それは映し出されたものでも、印画されたものでもない。写真に基づいていることは像の質がおのずと示しているのだが、それを投影したり印画したりするのではなく、編物によって再現しているのである。写真と飛行機という近代テクノロジーの遭遇を、手編みという前近代性を帯びたテクノロジーによって示しているのだ。
 像の編み込みには、さまざまな材質の糸が用いられており、背面に回り込むと、刺繍の裏側のように白、黒、銀の糸が――“スクリーン”上辺の湾曲を繰り返すようにして、無数のカテナリー曲線を描いている。なかでも銀糸の輝きが眼を捉えるが、これは表面の像において、銀塩写真のテクノロジカルな雰囲気をリアルに醸し出している。
 ところで、この映像の右端の中央付近には錆びた鎌が突き刺さっており、静かながら強烈な異化効果をもたらしている。爆発炎上という、いかにも機械文明にふさわしい派手な暴力性に、前近代的な道具による、ささやかな、しかし鋭い暴力性が対置されているのだ。この対置は、機械文明への――その生活世界を超えた制御不可能な在り方への――否定の意思の表明と受け取ることができる。
 近代テクノロジーの粋を集めた機械に対する鎌の一振りは「蟷螂の斧」にすぎない。とはいえ、この錆びた鎌は、表象として強い否定性を帯びている。呪詛といってもいい。その背後には、トタンの床のそこかしこに配置された鉈、鍬、フォーク、シャベル、縄、竹籠などの道具類――すなわち前近代のテクノロジーのネットワークが控えている。
 それら道具類のネットワークから発せられる信号は、会場のところどころに置かれた合掌するように支え合う木箱(麹箱)や、それらの下に、ひっそりと置かれた玉葱たちのあいだをピンボールのように行き交いながら、“スクリーン”上の炎上にまでも届いている。☆その信号は、「農業」と「工業」、「道具」と「機械」に表象される前近代と近代とのあいだを繋ぎつつ、トタンを踏む靴音と相俟って、近代における、そして前近代におけるテクノロジーの「駆り立て体制Ge-stell(ハイデガー)を、多元多様な生へと開いてゆくポイエーシスの響きを――脱近代の、その先へと、ひとびとを誘うようにして――感じさせる。あるいは、こういってもよい。この空間には、悪意に充ちた善意が瀰漫している・・・・と。

20111128日 来廊
北澤憲昭













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